章の最終更正日 西暦2010年6月24日

桃の実のお話と言いますと

「古事記」には、イザナギ尊は黄泉の国にイザナミ尊を訪ねます。
しかし、私の体を見ないでくださいと言うイザナミ尊の醜い姿を見て逃げ帰ります。
そこで、イザナミ尊は怒って黄泉醜女(よもつしこめ)を追わせます。
黄泉醜女(よもつしこめ)からは何とか逃げましたが、
イザナミ尊の体から出た八柱の雷神と黄泉の国の1500人の軍隊に追われます。
イザナギ尊は十拳剣(とつかのつるぎ)を振り振り、
この世と死者の境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)まで辿りつくことが出来ました。
 その時、黄泉比良坂に成っていた桃の実を三つ追っ手に打ち付けたところ
追っ手は黄泉の国にと逃げ帰りました。

イザナギ尊は、その桃に対して、
「そなたは、私を助けたくれた様に、
葦原中国(あしはらなかつこく)に住む全ての人々が、
苦しい目にあって思い患っているとき、
私と同じように助けなさい。」と告げ、
桃の実に意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)という名を授けたとあります。

イザナミ尊の追撃に失敗したと知ると、イザナミ尊は自らが追撃に走られます。
そこで、イザナギ尊は黄泉比良坂の中央に千人力でやっと動く大岩を据えて、
これ限りにて「ちぎり」を解くことを申し渡されました。
この岩を追い返しの道反(ちがえし)と言います。
また、この岩を千人で引くから千引き岩とも言います。

一般的には、古事記の中味は具体的には語られておらず、
黄泉醜女(よもつしこめ)に桃を投げて逃げたと説明されるのもあります。
また、意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)ではなく、
大神実命(おおかむづみのみこと)とするのもあります。

また、別に悪鬼退治の桃太郎の話もあります。
どうして、悪鬼退治も「桃」なのでしょうか?。

これは神言会の方で説明されていますが、
神との契約(ちぎり)において
良心の比較(比良)により、
神の国と黄泉の国とが線引き(千引き)されている意味になります。
どんな宗教であっても、
道が反していれば、追い返しの道返(ちがえし)になるでしょう。
しかし、何故に追っ手は桃の実で逃げたのでしょうか?。

日本神話は、
天帝(創造神)が教えの意味を理解するように仕組まれたものと聞いています。

「桃」に神は如何なる意味を秘められたのか?

桃は、古来より不老長寿を意味します。

能楽の西王母には、
賢君の誉れ高い周の穆王の所に、
三千年に一度咲くという桃の花を持って仙女西王母の化身である女が現れ、
王の威徳をたたえて花を奉り、天に昇る。
やがて西王母が侍女を従えて天下り、
仙桃を王にささげ舞を舞い、御代を祝うがあります。

三千年に一度咲くは
仏教の優曇華と同じ意味合いになります。

皆さんが神となる意味が大神実命の「桃」
神と成る魂に「誂える」が桃

明治25年(西暦でいち早くにの1892)節分の夜、
丹波の片田舎綾部で発祥した大本教は、
明治55年世の大立替説で世にセンセーショナルを起こしましたが、
この元となった神論には立替とは出ていません。

大本教神諭、明治37年旧7月12日
【明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構な日であるから】
この内容が立替と見なされたわけです。
そして、大本教は三月三日の桃の花。
五月五日の桃の実と大宣伝をしました。

三月三日とは「桃(上巳)」の節句です。
五月五日は「端午」の節句です。

ここで、私達は不思議なことに気付きます。
確かに、三月三日は桃の節句と言います。
しかしながら、桃の花は桜の花より1週間ほど後に咲きます。
例えば、西暦2009年の旧暦3月3日(新暦3月29)頃に桜は咲いていましたが、
桃の花は未だ見あたりません。


西暦2009年旧暦3月3日頃の愛媛県松山城の桜

大本教からではなく、日月神示の岡本天明氏から「ひふみ」が出ました。
この「ひふみ」は、数字の序列を言葉に置き換えたものです。
桃が「百」に置き換えられていることは解っておられると思います。
しかしながら、表を見れば解る様に「百」は「モ・も」の一字。
モモは百々で、万の数を意味します。
百々地と書いて、モモチと読んだはずです。

桃(百々)の実に誂えるは、万歳の授け


みろくの世の住人の肉体に、永久に死がないのではありません。
その世界に入れば、その世界用の肉体が備わるのです。
その寿命が万歳まで保つ世界の意味です
みろくの世にも、肉体の死そのものはありますが、
今までの観念からすれば不老不死と呼ぶような世界なのです。
どんな次元においても、形を持つ時は消滅と再誕は繰り返すのです。
みろくの世は万歳死
それでも、イエスが説いた神の千年王国の十倍の命とは言えるでしょう。


それならば、十三番目は「す」の神ではなく、「ろ」の神だろうとなります。
「ろ」の字は「呂」から出ました。
伴侶の呂は、二つの玉が繋がっている意味
地球にも伴侶たる地球が存在したのです
宮の中、呂が存在するでしょう
二つの玉が呂となる時が「十三」の時
あなたの魂と神に誂える魂とが結ばれる時


しかしながら、大本教霊界物語に詳しい方ならば疑問が出るでしょう。
大本教で説いたのは「水晶魂」でした。
当然に、水晶魂と桃の実は違います。
桃は、どこまでも神の世界に誂えるの意味を秘めたものなのです。
もしも桃そのものが魂ならば、その魂は時間で腐ってしまうでしょう。
腐らない魂の意が水晶玉なのです。
今の世は輪廻転生が説かれてはいますが、
魂を潰したり腐らせたりで、全ての人が輪廻転生の中にはないのです。
神が弥勒世の為に授ける魂は水晶魂

これらは、人の知恵で織りなされた仕組みではありません。
創造神と呼ばれる様な神が仕組まれたことなのです。
人の知恵で、神がされることなどは解らないのです。

三月三日は女子の意味ならば
五月五日は男子の意味

大本教神諭 明治31年旧12月26日

出口直に明治25年に申してある事、
この大望な経綸の致してあることを、世界に一人知りておる。
誠の人はこしらえてあるから、この誠の人が出て来んと解らんぞよ。
誠の人を西と東に立別けて御用がさして在るぞよ。
この事解りて来たなれば、三千世界が一度に開くぞよ。
綾部に九つ花が咲いたならば、万古末代枯れぬ花であるぞよ

大本教が咲かせたのは、
本当の九つ花ではありませんでした。
大本教は予告編。

桃には、男子形と女子形の二つあるということです。

五月五日は「粽」の節句にて「米」の教えが解り。
三月三日は、桃の節句にて三十三の創り。
「八十一」の雛型は、三十三ヶで「米」の形。




追稿